スクリプトと感性―日本語の「かた・ち」/岡山恵美子

岡山恵美子
Department of Asian Studies
Macquarie University, Sydney, Australia

はじめに

今から120年程前に、初めて日本を訪れたラフカディオ・ハーン*iは、開港間もない横浜のようすをこう語っています。「目の届く限り、幟がはためき、濃紺ののれんが揺れ、どれもみな日本の文字や漢字が書いてあるので、美しい神秘の感を与える」。町中に溢れる文字の特異さにすばやく気付いたハーンは、表意文字が日本人の頭脳に作り出す印象は、単なる音声の符号に過ぎないアルファベットが西洋人の頭脳に作りだす印象とは格段の差があり、「表意文字は生命感あふれる絵だ」とも記録しています。来日したばかりで日本語の知識がなかったハーンが、日本の文字の絵画的要素を見抜いたのは炯眼ですが、逆に予備知識がなかったために本質に迫ることができたと言えなくもありません。日本では 源氏物語絵巻や江戸の絵入り小説、浮世絵、書などに代表されるように、文学や芸術の様々な分野で文字と絵がほぼ同等な地位を保ってきました。この伝統は現在に引き継がれ、特にグラフィック・デザインの分野で生かされています。それは、アルファベット文化圏に比べて、日本では文字と絵の距離が非常に近いからではないでしょうか。でも、この関係はこれまであまり研究の対象にはなりませんでした。というのは、文字の研究はアルファベット中心に行われてきたからです。極度に抽象化された表音文字であるアルファベットを使う西洋では、文字と絵は根本的に別のものであり、情報は文字によって単一方向に表記されるものだからです。ところが日本語では、文字の多くが表意的要素を備えているだけでなく、文字の種類、読み方、書く方向、レイアウトなどあらゆる面で複数の選択肢があります。

その結果、画家が積極的に文字を絵に取り入れたり、作家が詩や小説をビジュアルに表現したりするのは珍しくありません。たとえば、「佃島住吉祭り」や「平の建舞」(図1)*ii がその良い例です。両作品ともに文字が絵の焦点で、前者では幟によって初めて絵の場所と行事が判り、後者では「平」という漢字が絵の主役で擬人化された鯰は脇役にすぎません。文学の分野では、表意的な漢字と表音的な仮名で書く日本の作家は、アルファベット圏の作家に比べ視覚的効果に敏感で、文章だけでなくビジュアルな手段を使ってメッセージを伝えようとする傾向が強いようです。谷崎潤一郎の作品の多くは特定の視覚的効果を与えるために、文字・レイアウト・挿絵などに細心の注意が払われています。たとえば、交互に繰り返される夫婦の日記で構成された『鍵』では、 漢字カタカナ混じり文で書かれた夫の日記は堅い男性的印象を与え、 漢字ひらがな混じり文で書かれた妻の日記は柔らかい女性的印象を与えるように計算されています*iii。これは、後で詳しく述べますが、谷崎のライフワークとなった『源氏物語』と平安文学の研究から得た技巧かもしれません。最近でもグラフィックな表現にこだわる作家は少なくありません。京極夏彦は InDesign というグラフィック・ソフトを原稿用紙の替りに使っていて、どの作品をとっても頁の終わりには必ず句点がくるようになっています(*iv)。また、恩田陸のミステリー小説『ユージニア』は頁のサイズが不規則で行がわずかに傾いているだけでなく、偶数行と奇数行では字数が異なっているという凝りようです(*v)。ミステリーの読者に不安と苛立を表現内容と表現形態の両方から味わって貰おうというもくろみでしょうか。
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図1 佃島住吉祭り(安藤広重)と平の建舞(作者不詳)

文字と絵の緊密な関係を象徴するもうひとつの表現形態として、文字と絵の中間にある書が挙げられます。英語で言うカリグラフィーは、西洋では普通クラフトの分野に属しますが、日本では芸術であり、絵画同様に収集され美術館で展示されます。書では、紙の色や質・墨の濃淡・線の肥痩・文字と文字の空間すべてが文字と同様に重要で、書のメッセージはこれらすべてを介して伝えられます。書道家西川寧氏の作品に「蟷螂」(図2)という書があります。御子息の西川杏太郎氏のお話では、寧氏はカマキリが細い身体なのに「はさみ」を振り上げて自分より大きい敵を威嚇する気の強さを面白がり、また「蟷螂」という文字の「制型的な形」に興味を示してこの作品を書かれたそうです。蟷螂という漢字の持つ「形」にカマキリという生物の攻撃的な性格と、カマを持ち上げた姿とをオーバーラップさせてビジュアルに表現した作品です。

図2『蟷螂』西川寧

図2『蟷螂』西川寧

これまでお話してきたことからお判りのように、日本の文字の根底には、アルファベットに比べて遥かに絵画的・視覚的性質が潜在しています。アメリカの言語学者レナード・ブルームフィールドが「Writing はランゲージではなくて、ランゲージを記録する道具に過ぎない*vi」と断言したように、アルファベット文化圏では長い間、文字は音声の影と見なされてきました。そのため西洋言語学は、音声 (phonetic dimensions) の研究に終始してきました。文字体系に興味を示した言語学者は非常に少ないのです。

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図3 文字と記号が氾濫する日本の都市 大阪(左)と東京

ところが、実際に私たちの生活を振り返ると、本、雑誌、広告、標識、看板、新聞、テレビ、インターネットなど、文字が溢れています(図3)。マイケル・プロンコは『ニューズウィーク』誌(2003年)で、日本の都市を看板天国と評し、「東京で一日過ごせば、小説を一冊読んだのと同じくらいの言葉に出合える」と言っています*vii。文字無しに生活するのは不可能と言えるかも知れません。その多くの文字が、ハーンが言うように「絵のように」視覚に訴えてきます。これは、抽象化され意味を失ったアルファベットにはない特徴です。また、ロラン・バルトが「日本画は書から生まれた」*viiiと解釈したように、日本語の創造的活動において文字と絵は密接な関係を保ってきました。これは電子メディアの発達した現在も変わりません。逆に、一つのテクストに複数のモード(たとえば文字、絵、写真、動画など)やサインシステム(複数の言語あるいは記号)が共存するマルチモーダルな表現が普遍化するなか、新しいビジュアルな「言語」とその「文法」を模索している西洋に比べて、三つの文字体系を有する本来マルチモーダルな日本語と、文字と絵があらゆる分野で共存するビジュアルな日本文化は優位な立場にあると言えるかもしれません。本稿では、こういった日本語の文字の性質に焦点を当て、西洋で作られた言語理論に疑問を投げかけると同時に、日本語の文字の可能性を追求してみたいと思います。

日本語のかたち

さて、ここからが本題です。では日本語独自の体系とはいったいどんな体系なのでしょうか。言語を構成する三大要素として、音声・意味・文字があります。この三つを切り離したら言語は成り立たないのですが、今回はビジュアルな側面を問題にしているので、文字に焦点を当てて見ていきたいと思います。

グラフィック・デザイナーの杉浦康平氏が『かたち誕生*ix』の中で、こういうことを言っています。日本語の「かたち」という言葉は「五感によってとらえた、もののありさま」という意味で、語源的に「かた」と「ち」に分けられる。「かた」は「同じ形をくりかえし生みだすもの」で、型、鋳型、堅い、固まる、のような言葉につながる。芸能(能、歌舞伎、日舞など)や武道(柔道、空手など)で「かたを覚える」というのはまさにこの意味で使われています。書道でも「永字八法」という基本的な筆法(かた)があります。これに対して「ち」は、「いのち」の「ち」、「ちから」の「ち」で、「かた」のなかをかけめぐる生命・活力のようなものだと言います。そうすると、「かたち」とは単なる目に見える形態だけでなく、不可視の部分を合わせ持つものだということになります。前述の西川寧氏の「蟷螂」はまさに蟷螂という「かた」に「ち(生命)」を吹き込んで「かたち」にしたものだと言えます。

では、いったい日本語のかたちとはどんなものなのでしょうか。ここに一枚の折り込み広告(図4)があります。一見、ありふれた新刊書の広告のようですが、以下に示したように、この一枚に日本語のあらゆる特徴が詰め込まれています。箇条書きにすると次のようになります。

  1. 複数の文字(漢字・ひらがな・カタカナ・アルファベット)
  2. 複数のフォント(最低5種類使われています)
  3. 多方向性(縦書き・横書き)
  4. 句読点の用法(文法上の要請というよりもビジュアルな用法)
  5. 複数の読みの可能性(ニホン/ニッポン、ワタシ/ワタクシ)
  6. 新旧の漢字の共存(藝—旧字体)
  7. 絵と文字の共存
図4 文春新書の折り込み広告

図4 文春新書の折り込み広告

漢字仮名アルファベット混じり文を常用する私たちは、それが当たり前だと思っていますが、複数の文字体系を同時に使用する言語は世界でも日本語だけです。韓国でも漢字ハングル混用の時代がありましたが、今ではほぼハングルだけに統一されています。上に挙げた項目を見ると、文庫本サイズの小さな広告の中に、文字体系だけでなく、文字の方向、フォント、漢字の読み方と表記、絵と文字など、それぞれの項目に複数の要素が共存していることに気付くはずです。中心にある文字絵には「不良債権」「ダイオキシン」「経営責任」など、ストレスの原因になる言葉がゴシック体でひしめき、言葉の意味とフォントの堅さの両方で現代人の置かれた状況を表現しています。一方、左右と上部の文は柔らかいフォントでしかも「文春新書」を囲む枠は角が取れて丸くなっています。「癒し」としての読書をアピールするためでしょうか。このように一つ一つの構成要素が、違ったインパクトで視覚に訴えてくる―これが日本語のビジュアル性の特徴です。社会学者の酒井直樹氏は異なる文字体系の共存が日本語のアイデンティティだと主張していますが(*x)、それ以上に、あらゆる面で異質なものの共存を許してしまうマルチ・モーダルな性質こそが日本語の究極の「かたち」であり、アイデンティティだと私は思います。
それでは、上記の項目の中から今回はマルチ・スクリプトの特徴を見ていくことにします。

マルチ・スクリプト(漢字と仮名の構造)

漢字の構造を初めて体系的に分析したのは後漢時代の許慎で、その著書『説文解字』に六種の法則(象形・指事・会意・形声・転注・仮借)を載せています。これは今でも使われている分類法ですが、転注と仮借は運用上の分類に属し、造字法による分類は前の四つ、なかでも最も基本的なのが象形文字です。象形の象は「かたどる」と読み、物の形の特徴をつかんで表現すると言う意味で、絵画的要素を強く残しています。指事文字は目で見えないものを形で表したもので、「上」や「下」のように記号的要素の強い漢字です。この二つが漢字の中核となるものですが、数的には全体の5%に満たず、残りの95%以上は合成文字の会意・形声に属します。なかでも、形声文字は漢字全体の85〜90%を占めています*xi

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図5 象形文字の成り立ち/図6 会意文字の成り立ち

では、漢字の構造を少し詳しく見てみましょう。図5は象形文字の「山」「日」「回」の楷書体(下欄)とそのもとになった絵文字風な金文(上欄)です。金文の段階ですでにかなり単純化されていますが、それが楷書体になると丸いものがみな四角になります。この○と□は漢字の構造の上で重要な意味を持つものです。次に図6を見て下さい。「雷」という会意文字のでき方を示したものです。「雨」と「田」を上下に組み合わせてできています。意味の違う漢字を組み合わせて、関連する意味の漢字を作るのが会意文字ですが、新しくできた漢字の音はもとの漢字の音とは違う場合がほとんどです。この「雷」という漢字でもう一つ注目したいのは、その構成要素の視点の問題です。「雨」は空から降る雨を横から眺めた側面図、「田」は四角に区割りされた田んぼを空から眺めた鳥瞰図です。つまり、「雷」は二つの意味の合成だけでなく、まったく違う二つの視点の組合せでもあるのです。

次に形声文字を見てみましょう。国語の授業では、形声文字は意味を表す部分(意符または部首)と音を表す部分(音符)とを合わせてできた漢字だと教わると思います。はたして、そうでしょうか。次の例を見て下さい。

意味(部首)+ 音(音符) → 形声文字
草(くさ) + 化(カ) → 花(はな/カ)
革(かわ) + 化(カ) → 靴(くつ/カ)
言(いう) + 化(カ) → 訛(なまり/カ)

「草」「革」「言」の部首に「化(カ)」という音符を加えると、「花」「靴」「訛」という形声文字ができ、すべて「カ」と音読みします。この説明だと、「化」という漢字は純粋に音だけの機能で使われていると思われがちで、実際に学校ではそう教わります。しかし、よく見ると、部首の意味だけでなく、音符「化」の持つ「ばける・かわる」という意味が合成された形声文字のなかに生かされているのは明らかです。形声文字は会意文字の特殊なものという解釈ができるかもしれません。そう考えると、表音的と思われがちな形声文字も表意的機能を強く維持していると言えるのではないでしょうか。

図7 仮名の成り立ち

図7 仮名の成り立ち

では、表音文字である仮名の構造を見てみましょう。仮名と言っても、カタカナとひらがなでは造形も違えば用法も違います。図7は仮名のでき方をごく簡単に示したものです。カタカナの多くは上の二段にあるように、漢字の一部をそのまま取って作られました*xii。これに対して、ひらがなは漢字の草書体、いわば「くずし字」からできています。つまり、カタカナはその漢字「片(カタ)」が表す通り「部分」から成り、ひらがなは「全体」を極限まで平(ヒラ)たくした(くずした)ものと言えます。その結果、カタカナはもとの楷書体の堅さと停滞を継承し、ひらがなは草書体の柔らかさと流れを継承しています。

用法では、平安時代からカタカナは男性専用で漢文を読むための記号として使われ、ひらがなは宮廷の女官によって和歌や日記、物語に使われていました。漢字・カタカナを男手、ひらがなを女手と呼ぶことがありますが、必ずしも、男女で完璧な使い分けがあったわけではなく、漢文で日記を付けていた男性も和歌はひらがなで書いていましたし、漢字・漢文が得意な紫式部のような女性もいました。むしろ、その用途と造形的な特徴から、男性的なカタカナは外国語(漢文)に、女性的なひらがなは和語に使うという役割分担ができていたようです。近代以降、カタカナが英語を始め外国語表記専用の役割を担ってきたのは、当然の成り行きと言えます。このように、でき方と機能を別にしてはいますが、カタカナ・ひらがなに共通している点があります。同じ表音文字でも、アルファベットのように線上に配置されることなく、表意文字の漢字同様に四角な面を構造の基礎にしているところです。文字の単位としては一つ一つが独立して、それぞれのマスに収まっています。この点については、またの機会にお話しますが、マス単位のユニットだからこそ、縦書きにも横書きにもできるのです。

以上、簡単ですが日本語の三種の文字について,以下の項目を取り上げてきました。

  • 漢字の最も基本的なものは象形文字と指事文字である。
  • 象形文字は眼に見えるものをかたちにしたもの、指事文字は見えないものを記号で表したものである。
  • 現在使われている漢字の大部分は形声文字である。
  • 形声文字は意味を表す部首と音を表す音符からなり、その構成要素は象形文字や指事文字である。
  • 音符の表音的側面が強調されがちだが、音符は純粋に音声として機能するのではなく、意味の上でも貢献している。
  • カタカナとひらがなは造形・用途を異にするが、漢字から作られたもので、四角な面を基本としている。

また、一つの言語で複数の異なる文字体系を持つのは(ほぼハングル化した韓国語を別にすれば)日本語だけであり、それが日本語のアイデンティティとなっていることも強調しました。私たち日本人は毎日の営みの中で漢字仮名アルファベット混じり文を無意識に使い、それが当たり前だと思っていますが、マルチ・スクリプトな言語ゆえの様々な問題あるいは可能性について考えてみることも必要ではないでしょうか。そうすることによって、日本語ひいては日本文化への確かな認識を深めることができるのではないではないかと思います。

この文章は、2008年5月22日国際交流基金日本研究フェローズ・セミナーでの発表をもとに、新たに書き下ろしたものです。

*i.小泉八雲『神々の国の首都』講談社学術文庫 1993 (1984)年 9-11頁
*ii.安藤広重『名所江戸百景』第55図「佃島住吉祭り」1858 (ブルックリン美術博物館蔵)、「平の建舞」(作者不詳)1855年の大地震後に描かれた鯰絵(個人蔵)
*iii.谷崎潤一郎『鍵』中央公論社1973(1956)年
*iv.祖父江慎『文字のデザイン・書体のフシギ』「ブックデザインとかなもじ書体のフシギ」左右社 2008年(6−51) 19頁
*v.同上 22−23頁
*vi.Leonhard Bloomfield. Language. New York. 1933年 283頁
*vii.マイケル・プロンコ(Michael Pronko) 「静けさの国の看板天国」『ニュ−ズウィーク日本版』2003年12月3日発行 50頁
*viii.Roland Barthes. Empire of Signs. Translated be Richard Howard. Jonathan Cape: London. 1982 (1970)年 86頁
*ix.杉浦康平 『かたち誕生 図像のコスモロジー』NHK出版 1997年 5−7頁
*x.Sakai Naoki. Voices of the Past – The Status of Language in Eighteenth-Century Japanese Discourse. London and Ithaca: Cornell University Press. 1991年 266頁
*xi.秋山虔編『新編国語便覧 新装版』中央図書 1978年参照
*xii.なかには例外もあり、ケ(介)チ(千)のように漢字全体から作られたカタカナもあります。詳しくは山口謡司著『日本語の奇跡<アイウエオ>と<いろは>の発明』参照


岡山恵美子岡山恵美子
長崎出身。長崎大学教育学部卒業後 、ダブリン・シティ大学修士課程(翻訳理論)、シドニー大学博士課程(言語学)修了 。タスマニア大学、シドニー大学の日本語教師を経て、現在マコーリー大学アジア研究学部専任講師を務める。また、1996年以来、プロの翻訳家としてタスマニア州政府観光課や、シドニーの交通局、移民局関係の翻訳・通訳を手掛ける。2007年、国際交流基金日本研究フェローシップを授与され、名古屋大学大学院国際開発研究科の客員研究員として半年間日本滞在。日本語の文字の持つデザイン性や視覚的要素がデザインの現場や、日常生活の中でどのように機能しているかを、理論と実践の両面から解明しようと、カメラ片手の都市散策を趣味としている。